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風間ゆたかのストーリー
教育と共に
◆母の死◆
私は三人兄弟の長男で、小学校ではやりたい放題の問題児。先生には叱られっぱなしで、教壇の隣が私の指定席。小学生6年の間、ずいぶん母を悩ませたものだ。その最愛の母が突然、大学4年生の時に胆嚢がんで亡くなる。男ばかりの家族で苦労した母に、これから恩返しをしようと思っていた矢先の急な別れだった。
◆教育者だった父のうしろ姿◆
中学生になると少しずつ勉強もできるようになり、高校は早稲田大学本庄高等学院へ進学。中・高ともに野球部のキャッチャー、キャプテンで4番を担う文字通り「野球漬け」の生活だったが、高2の時、聖飢魔IIのコピーバンドを結成し本格的なメイクが街中の噂となったことも。高校教師だった父は、教え子の生き方を導くような、慕われる教師だった。教育者の父の目線は、私の重要政策である子ども・子育ての根源に大きく影響している。「自分の人生を、思うように歩め」そう父は語り、私は育ったのだから。」
中高は野球部で4番キャッチャー・主将。大学の4年間はラグビーサークルでロック。
破天荒な青春時代。自分の思うように自由にさせてくれた父の存在があってこそ。
◆「真の教育とはナンだ?」もがいたベネッセ時代◆
早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業後、ベネッセへ入社した。バイタリティだけは負けない異端児新入社員として、新チャンネル開発チームにも抜擢される。ITに明るい上司に育てられ、仕事は日々充実していたが、2年で退職。
◆時給300円のベンチャー創業時代◆
大学生向けの就職支援事業に取り組んだ後、教育ベンチャー会社へ参画。「教育を通じてより良い世の中に」という理念に共感し、私はがむしゃらに働いた。経産省の事業を受託し、体験型プログラム授業を全国の小中学校で行い会社の経営を立て直すも、企業としてできる学校教育改革の限界を痛感し、6年で引退。政治家として「教育を一生のテーマにする」と決意し、33歳で初当選を果たす。
◆仕事も、家事も、育児も、アタリマエ。◆
3人の子育てとは、なんとも大変である。仕事をしている妻と共に、家事・育児は分担が当たり前の我が家だが、子育ては「手伝う」なんて生ぬるいものではない! これを痛感した私は、区議に当選してすぐに世田谷区の母親学級に「両親学級」の追加を実現させた。PTA行事と保護者会は私が担当だけれど、「女らしく」「男らしく」の呪縛から私を開放し、教育してくれた妻には頭が上がらない。
週末は家族で過ごす。息子も娘も料理が好きの私の得意料理はシュウマイ。
◆病気のこと◆
ポジティブな私も、政治家になって発症した「乾癬(かんせん)」には悩まされている。皮膚が毎日入れ替わり、肩に白く剥がれ落ちてフケのようで、清潔感がない。治療で丸坊主になり落ち込むこともあるが、この悩みも天が与えし試練だろう。
◆私が都政にチャレンジする理由◆
いま、大都市東京はコロナ禍で、急速なリカバリーが必要なのに都政はどこを向いているのだろう?公教育を見ても、一気に進んだICT化を始め、不登校、教員の働き方改革、ブラック校則、都立高入試改革、公立校内申点問題など、東京都の教育は課題が山積みだ。私は教育のプロフェッショナルとして、世田谷区議として、この14年間教育改革をやってきたが、区政だけでは突破できない壁がある。だから私は都政を目指す。未来に安心を提供し、子どもに重い負担を上乗せせず、ポストコロナを見据えたジェンダー平等、教育改革、少子高齢化対策に大胆に予算を投じるために。
誰もが希望を持てる未来のために、私は働きます。